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ブログ

2019.10.15

TIMELESSな美について想いを馳せる

季節は長い夏を経て、ようやく秋めいてきたと思ったら、10月に入ってから大型台風の襲来で迎えた3連休でした。

台風の爪跡もまだそこかしこに見られます。皆様の穏やかな暮らしが1日でも早く取り戻せますようにと祈らずにはいられません。

前回のブログはまだ夏真っ盛りの記憶を綴りましたが、今はもうすっかり秋。朝晩は20度を割り込むようになりました。

9月の最終日、30日に友人の田中敏恵さんが企画された『TIMELESS時を超える美と言葉』というイベントに参加いたしました。このイベントは、東京、西新宿のパークハイアットホテル25周年を機に企画され、以前からパークハイアットをこよなく愛していらっしゃる作家の吉田修一さんが、ホテルに滞在されながら上梓された『アンジュと頭獅王』発売を記念し、開催されたもの。

田中敏恵さんと吉田修一さんの物語誕生秘話に関する対談、その後は、文楽協会技芸員の太夫・竹本識太夫氏と三味線・鵜澤清志郎氏による浄瑠璃『安寿とつし王』の一節を義太夫節で拝聴するという、なかなかの内容です。

ホテルのバンケットルームのような比較的小さなスペースで聴く義太夫節と三味線、圧巻の響きでした。まるで自分もその時代にワープしてしまったかのような心持ちになります。

今回のイベント、テーマが『TIMELESS』ということもあり、私にとってのタイムレスな美とは何だろう、と再考する良い機会になったように思いました。

対談の中で、吉田修一さんが定義づけた「美とはためらいのないこと」には賛同しつつ、美が歴史の中で常に「ためらいがなかったのか?」と言われれば、わかりません。その美のために、時には死に至るためらいのなさも過去にはあったのかもしれません。

例えば宗教みたいなある種の規律や思考を「美」と定義づけることによって「美とはためらいのないこと」としてしまうと、過去においては、十字軍の遠征、キリスト教の新旧の信者の争い、現代においてもイスラム教との戦いなども「美のためにためらわず」と、容易に説明されてしまう危うさをはらんでいる気もしてきます。

かように「TIMELESSな美」の定義づけは難しいな、と思うのです。

しかし、一方で1000年も昔の『源氏物語』の中で、恋しい人へ香を薫きしめた手紙を、花とともに送る、こういう行為を、1000年後に生きる私たちも「美しい」と感じます。日本人の感性は1000年も変わっていない、ということなのでしょうか?

1000年前の感性を、現代に生きる私たちがそのまま受け取ることができる、これぞまさしく『TIMELESSな美』の一つなのかもしれません。

それと同時に思い出したのが、昨年金沢の陶芸家と、江戸時代に長崎の出島で創業したドイツの商社、その4代目社長との会話です。私は通訳として入ったのですが、その時の会話がとても興味深かったので、メモしておきました。

テーマは、美という字は大きな羊と書くがそれは何を意味するのか?

陶芸家の方から投げかけられた質問でした。ドイツ人に向かって「あなたはどう思うのか?」と。

色々な会話が飛び交ったのですが、最終的にお二人はこのような結論に至りました。

美の定義とは

・みずみずしいことーそれはfreshではなくもっと深い意味を含む

・決して色褪せない普遍的なもの

・時の一番の権力者に受け入れられるもの

これらの要素を含む大きな羊は、群れの中にいてもその大きさゆえにすぐ誰にでもわかる。

それゆえ大きな羊が美という字になったのであろう。

今こうして書き起こして見ると、大きな羊、と書く「美」はなにやら権力と結びついた、どちらかというと危うさをはらんだ方向に近い気がしてきます。

こうなってくると観念的な「美」と感性的な「美」はオーバーラップさせない方が良いのかな、という気もしてきますね。

時代と時間を超えた美しさ、TIMELESSな美、その時々で考えていきたいテーマです。

 

(画像は発掘品の水牛の赤ちゃんー時代がたっても動物の赤ちゃんの可愛らしさは普遍に感じられます。これもTIMELESSな美の一面なのかもしれません)