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2018.01.09

2018年に思うこと

2018年に思うこと

2018年、新年明けまして早や9日。皆様今年もよろしくお願いいたします。

年明けから数日はゆっくり読書に没頭するのがここ数年の習わしになりましたが、今年まず感銘を受けた本が
建築家・渡辺武信著の『住まい方の思想』でした。
1983年に出版された本なので今から35年前の本になります。
序章、終章を挟んだ全12章の中で生活のあり方を、家の中のスペース別に丹念に検証することで具体的に語ってくれています。
特にインパクトがあったのが、第12章の「収納」
昨今、騒がれている「断捨離」「持たない暮らし」の思想的背景はここにあったのか、と膝を打ちました。
渡辺先生に言わせれば、今日の(1983年)生活の中にあまりにも多くの『モノ』が溢れすぎている傾向は、
低成長に入った今では、そういう「モノに支配された生活」に対する反省が一般的であり、それはそれで正しいということです。
しかし、こうした考えが、『できるだけモノを持たないほうが良い』というところまで走るとそれは違う、と言います。
日本には昔から『モノにこだわるのは卑しい』という思想的伝統があるので、
モノの所有、保存に対する反発も極端に走りやすい。
このような伝統的考え方のモデルとなる人たちは、例えば、あばら家に住むことを理想としていた松尾芭蕉や、世捨て人だった吉田兼好ですね。
また、日本人の思想と言っても良い『サムライ』もモノへの執着を排するところに成り立っています。
『サムライ』はいつでも彼岸に旅立てるように、彼岸を日常的現実というように単純化しておく。
故に、日常の生活を楽しむなどということはあってはならないのです。

渡辺先生は、日本にはこのような思想的伝統があることを踏まえながらも、
現世への執着を捨てきれない俗人、凡人である私たちの生は、どうしようもなく『モノ』に交わり、『モノ』に支えられることで成り立っているのではないかと仰っています。
それは生活の中におけるモノは、たんなる物質的存在であるにとどまらず、しばしば精神的な意味を帯びてくる
からなのだ、と。
素晴らしいのはここからです。
渡辺先生は、『僕たちの生を支えてくれているのは実に多くの”なくても済むモノ”である。』と仰います。
ワインをワイングラスで飲んだらおいしい、コーヒーをマグで飲むとおいしい、というのは合理的に考えれば
幻影かもしれません。(ワインをコップで飲んでも味が変わるわけではないから)
しかし、そういう幻影を否定してしまえば、僕たちの生活には何が残るのか?
幻影が消えた後に残るのは、人間は何のために生きているのか?という本質的な問いかけだけであり、
その問いに答えられるのは選ばれた少数の人間だけであろう。
『だから僕は、弱い人間の一人として、生活の中の小さな幻影の優しさを大切にしていきたい。
ということは僕にはワイングラスもマグも必要なのだ。
僕たちの生の意味はそれに支えられていると言っても過言ではない。
幻影を維持していくために、僕たちは数多くのモノの助けを必要としている。
このように広い意味で精神性を付与された”モノ”は僕たちの友人とも言える。』

日本人がモノに執着するな、現世はかりそめの世であるというDNAに刻まれているであろう思想に対し、
生活の中の小さな幻影を大切にすることでこの世を幸せに生きることもできるのだというカウンターパンチに
しみじみ納得させられました。
とはいえ、日本文化の本質は『そぎ落とし』であり、『隠し味』でもありますから、この二つの思想が私自身の中でも常にせめぎあってはいるのが実情でもあります。
そぎ落としながら、選ばれたモノを友として幸せに生きる、のが理想でしょうか。
2018年はそんなことに思いを巡らせながらスタートしました。

新年早々長くなりましたが、2018年、皆様のご多幸をお祈りしております。

引用 渡辺武信 『住まい方の思想』 中公新書 1983

2017.12.31

良いお年を!

良いお年を!

今年もいよいよ今日1日を残すのみとなりました。
明日の朝は2018年となります。
毎年、この年の瀬に一年を振り返ります。

今年もアンティークフェア出展、そして年二回のスティーブ作品販売展を開催することができました。
そして11月末には、この3年間時折、フォトグラファーTOMOKO OSADAさんと撮影していた作品群を、
WANDEL写真画展『雄弁なるモノ』として千駄木ギャラリーにてお披露目することもできました。
亀の歩みではありますが、時を味方につけて実直にそして、確実に進んでいけたら良いなと思っています。

時代は、拡大志向よりは、小さくともきめ細かなことやモノが受け入れられる時代に変わっていっているような
気がします。
自分自身を含め、一人一人が、自分が志向している真の人生とはなんぞや、
と思いをはせられる年始になると良いですね 。

静かで穏やかな年始を皆さまがお迎えになりますよう。
良い年をお迎えください。
来年もよろしくお願いいたします。

ギャラリー久我
久我恭子

2017.11.15

Photo exhibition 『雄弁なるモノ』at White Gallery 11/23-28

Photo exhibition 『雄弁なるモノ』at White Gallery 11/23-28

11月23日より28日まで、千駄木のWhite Gallery にて写真展『雄弁なるモノ』を開催いたします。
この写真展は、昨年フォトグラファーのTomoko Osadaさんと結成しましたユニット、WANDELの活動になります。
お時間ございましたら是非ご来場ください。
WANDEL HP : www.wandel.tokyo
White Gallery HP: www.white-gallery.tokyo


雄弁なるモノ


子供が親を選べぬように
モノは持ち主を選べない

かれらは選ばれるのを待つのみ

持ち帰られてみれば

国が違い
時代が違い
素材が違う

モノと一緒に日々を過ごす

集められたモノによる世界観をそのひとのTasteと呼び
そのTasteを形作るモノたちが演技者になり
作られた舞台の上で芝居をした

思った以上に雄弁なモノたちに
驚かされたのは その持ち主だったそうな

2017.09.29

作家が「もの」を世に出すということ

作家が「もの」を世に出すということ


暑い夏も峠を越え、ようやく秋。
気持ちがひと段落すると、落ち着いてものごとに取り組めるような気がいたします。
今日は作家が「もの」を作り、それを世に出すということについて、私の経験をお話ししてみようと思います。

拙ギャラリーで扱っておりますイギリス陶芸家、スティーブ・ハリソンは、通常の陶芸家があまりやりたがらない塩釉の焼きのみでしか作品を制作しませんし、且つ受注を取ることもありません。受注を取ると、納品にばかり頭がいってしまい、制作への自由な想像力を阻んでしまうからだそうです。


しかし、以前から私はスティーブに抹茶碗を作っていただきたいな、と願っておりました。
茶の湯とは日本の総合芸術であり、お茶をいただくその一瞬は、一期一会であると考えられています。
そのコンセプトが、スティーブのお茶を味わう一瞬は、非日常であり、心を合わせる/または整える瞬間であるとする考え方とほぼ同じなのではないかと思ったからでした。

日本の茶の湯における美意識というのもまた面白い一面があります。お作法はきちんと決まっており、流派によって使うお道具も違ったりする複雑性がありながら、一方で「見立て」という独自のものの見方により、その『型』に時に違うものを時折、入れ込んだりすることも可能です。

見立て、とは文字通り、それ用に作られたのではないものを見立てて、転用するということを言います。
その昔から、韓国では雑器として扱われていた井戸茶碗が日本では茶人によって、大変珍重され、茶会のメイン茶碗として使用されたなんてことも度々ありました。
ですからスティーブの茶碗があれば「見立て」で使えるなあ、なんて夢見ていたのです。

しかしながら、スティーブは前述した通り受注を受けない作家さん。
彼が作ろうと思ったものしか制作しません。
そのような作家さんに「もの」を作ってもらうにはたった一つ、興味を持って自発的に作りたいと思ってもらうことしかありません。

ということで、スティーブに日本の茶の湯を説明するところから始めました。
資料や本、または萩焼茶碗をプレゼントし、興味を持ってもらうことに努力し始めたのが、私がまだイギリス在住であった2010年頃の話です。


2012年の来日時には、五島美術館、三井記念美術館、根津美術館などに一緒に行き、実際の茶碗をガラス越しに見てもらったりもしました。千利休の考え、人生などもお話しました。

そして初めて「作ってみたんだけど」と茶碗ができてきたのが2014年くらいのことだったと思います。

勉強家のスティーブは、一回見てきたものを自分なりに咀嚼し、再考し、それから
ようやく制作に入りますが、その後もなんどもやり直し、というプロセスをたどるので制作にはとても時間がかかります。
しかもその間にまた他のアイディアの虜になり、そちらの方に夢中になってしまい、それまで手がけた作品の制作は休むこともあります。

かようにして、まず作家が刺激を受け、その刺激にまつわる資料を学び、目で見て、学び、実際制作に入り、そこでまた試行錯誤をし、長い時間の後でようやく「もの」が世に出て、人々の目に触れるわけです。

今年ようやく、少しまとまってスティーブ抹茶碗をお披露目できることになりました。本当に嬉しく思います。

余談になりますが、作家の後ろには、コンスタントにものづくりを応援する家族のサポートも欠かせません。
スティーブははっきりと、「家族に問題があると制作には集中できない」と言っています。
変わらず、穏やかで規則正しい生活も、もの作りには大切なエレメントなのです。

私たちが目にする「もの」の後ろには、時に長い物語が隠されています。

 

2017.08.16

デレク・ジャーマンの家

デレク・ジャーマンの家

イギリスの砂漠、地の果てと呼ばれる場所、ダンジェネス。
ここには原子力発電所があり、危険区域と書かれた看板もあります。
そんな場所に、イギリスの思想家、映画監督、舞台デザイナー、園芸家でもあるデレク・ジャーマンが移り住んできたのは、自身のエイズ感染が発覚した1986年のこと。
それから7年後に彼は亡くなります。
しかし、亡くなるまでの8年間、休むことなく手入れされた庭には今でも彼の作品が残ります。

家の外壁には、16世紀の詩人、ジョン・ダンの詩が装飾されています。

 日の出

 ひたすらに務めて老いし 日の翁
 いかなれば かくやする
 窓に入り 帳をあけて吾らを訪なう
 汝の巡る時に従い 恋する時の終われとや
 賢しらに言あげて 学舎に
 遅れし子らと手を厭う弟子らを叱り
 犬飼いに王の出を告げ
 地の蟻を刈り入れに呼ぶ
 折り節も季節も刻も日も月も
 すべては時の切れ端 愛を知らず…. 
 汝と吾らがかくは契れば
 汝の幸は半ばにてやむ 哀れやな
 汝は老いし いまははや憩いの時ぞ
 世を温む汝の務めは すでにして果たし終わりぬ
 ここに来て吾らに輝け されば汝はあまねく在ます
 この褥 汝巡る軸 かの壁ぞ汝の照らす空

ここダンジェネス、そして今では主人のいなくなった家には不思議な、乾いた寂しさがあります。
時は移ろい、そして人は来ては去り、それでも景色だけは変わることなく訪れた人々を迎えてくれるー諦念の中にほの見える希望を感じさせてくれる家でした。